2011/03/25

初欠席と学校教育の欠点

深夜のMonopolyがたたり、朝一発目8時の授業に出そびれた。
他の仲間は10時から授業だということで、その直前にそうそうと帰っていった。
次の日帰国する友人とはきちんとお別れの挨拶もできずに寝ぼけたまま送り出してしまった。
さすがに授業に支障をきたしたので、indefinite hiatus(無期限活動休止)を宣言することにした。

午後は挽回すべく本来授業で見るはずだったTEDのプレゼンを見て、自分の考えをエッセイ形式で書くことに集中した。課題でなかったらお目にかかれなかったこのプレゼン。かなり「見てよかった」と思った。

タイトルは「学校教育は創造性を殺してしまっている」
現在の学校教育は「失敗を許容しない」方向でつくられており、それは仕事においてミスは許されない社会を前提として構築されている。それが「失敗を恐れる=チャレンジできない」子供たちを生み出し、子供たちの可能性を狭めているというもの。

例として、授業に集中できず落ち着きのない女の子の話があげられていた。
あまりにも「学校教育」上の成績にひどい影響がでていたので、女の子は精神科で診察を受けることに。そこで医者は「彼女がじっとしていられないのは踊ることが好きだからなのだ」と見抜く。
親がダンススクールに通わせると、彼女は才覚を表し、見事なダンサーとしてのキャリアを積む。
最終的にはジリアン・リン・ダンスカンパニーというダンススクールを開き、今や「キャッツ」や「オペラ座の怪人」などを手がけ、多くの人々に感動を与えるまでに。

つまり、万人向けの教育はある分野(といっても8割型はそれに属すると思うが)に向けたものであり、潜在的な可能性を発掘することには向かない。


かくいう自分もスタンダートの教育からそれることで多くを失うのではないかと恐れるあまり、本当にしたいことをリタイア後まで先延ばしにする道を選んでしまった。現実社会をみるなかで、したいことでは食っていくだけの能力はないと思ったからだ。

日本も単純に学ぶことの怠け者を正当化する(もしくは受け皿としてすくいあげる)「ゆとり」ではなく、本当に潜在能力のある子どもたちを見つけ出し伸ばす「ゆとり」の制度をつくっていたら、今ほど反感をくらうことはなかっただろう。

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